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解決は求めていません。。。

#東大入学式祝辞 #2019

今年の東大入学式の祝辞が話題になっていると聞いて、興味をそそられたので色々見てみました。

全文掲載の記事を一通り読んで、動画をノーカットで見てから発言しろよという意見があったので、その後ノーカットの動画も見てみました。確かに指摘通り、動画で最初から最後まで聞いた方が良いというか、文章として読んだだけでは全然別物になってしまうというか、そういう印象がありました。

 

ポツポツと色々な感想が自分の中に沸き、普段私が隙間隙間で考えていることに絡んでくるようなことも大いにあって、率直に、考えさせられるというか、東大入学生に対しての言葉にとどまらない、社会に向けた祝辞ではないかなぁと、個人的には、思いました。

 

しかしながら、やたらに出てくる「感動」という感想については、正直意味が分からないというかどこに?感動…?感動ってなんだっけ…てな感じで、感動したという意見には賛同しかねます。感動はしないだろ…笑

 

男女間格差、差別、フェミニズム、そこらへんの話はあまり興味がないので(もちろん日々の社会的活動の中で不条理で到底納得できない差を感じることは多々あるし、ちなみにそれは別に男女間に限らないけれど、まぁそういう事象については私には私の捉え方があるし、上野さんほどの情熱を持って闘う気はそもそもないので)、このあたりの話はスルー。

 

話題にもなっているように、私もスピーチ後半の内容に、重みがあると感じました。

・「がんばれば報われる」と思えるそのこと自体が、環境に恵まれているということの証であるという指摘。

・東大合格という素晴らしい結果を出し、万能感でいっぱいであろう人達に、それは努力の成果なのではなく、それを支えた環境のおかげだということを忘れないでほしいと言い切る価値観。

・頑張っても報われない人、頑張りたくても頑張れない人、頑張り過ぎた人、いろんな事情、経験を抱えて苦しんでいる人たちがいるということ、自分の為ではなく、それらを助けるために、その恵まれた環境、才能を使ってほしいという願い。

 

これは、考えてみると、実はそんなに奇抜な話ではないですよね。というか、なんなら、人として当たり前のこと、社会に居場所を求めて生きている、生活している人なら、根底として理解していること、把握していること、ですよね。

当たり前のことでも相手や場所が少し違うだけで当たり前ではないし、普通などというものは存在しないし、苦しいのは頑張っているのは頑張りたいのは、自分だけではないし。その中で、助け合い、支え合って生きていく。それが社会の姿ですよね。

そういうことを、東大入学式で、きちんと、丁寧にハッキリとした言葉で、願いを込めてアドバイスにしたのが、今回の祝辞だったのではないかなぁと思いました。

そもそもこんなことを誰かが言わなくてはならないくらい、これは別に東大入学生に限った話ではなく、今の社会全体として、思いやりや共感、寛容という類の優しさが欠如しているということなんだなぁと、危機感というか、少し怖いような気持ちがしました。

 

もちろんもちろん東大に入る人みんながみんなそうではないでしょうが、それでもやっぱり、残念だけど、万能感と膨らんだ自意識で胸がいっぱいの新入生には、タイミング的に届かない話だろうな、とも思いました。

実際、水を差されたように感じて反発している入学生もいるようですし、だからお前、そういうとこだぞっ!て話なんだけど(笑)、今はそうでも、これからの数年でいろんな経験をして、どこかで今回上野さんがおっしゃったような、尋常な価値観を獲得してほしいなぁと、地球がひっくり返っても東大には入れない田舎者が、しみじみ考えてみたりしています。

 

「なにかを頑張ろうと思えること、実際に頑張れること、応援してもらえること。その全てが素晴らしく、恵まれている、自分はいつでも世界に歓迎されていて、祝福されている。」

自分の子どもたちには、こういう価値観を獲得してほしい。その中で、結果を出すための努力をし、集中力、継続力をつけてほしい。威張るのではなく、いつでも世界に歓迎されている、祝福されているという幸福感を纏って生きていけるようになってほしい。ポジティブな結果は自分の頑張りだけでなく、環境のおかげ人のおかげと自覚して、自覚したうえで肯定的に生き、そうでない人を助ける気持ちを持てる人になってほしい。そういう価値観を持って、社会に出てほしい。

そういう人間を、社会に返さなければいけない。

 

そのために今私がすべきこと…

先回りして環境を整え過ぎたり、勉強について心配したり、そういうことじゃないよなぁ。

応援しているよ、あなたはいつでも歓迎されているよ、可能性は無限にあるよ、恵まれているよ安心していいよというメッセージを彼らにさりげなく発信すること、それだけかなぁと。その繰り返しが、彼らの人生的な肯定感を支えることになり、前向きな努力や挑戦の土台になり、感謝の気持ちと幸せの自覚を持った社会人の材料になるはずだと。。。

 

親としての使命感を新たにした夜でした。

ps.新生活を始める全ての人へ。ひとまずおめでとうございます🎉お互い頑張りましょうね。

 

ムスコとの距離感。

いよいよ育休終了(=職場復帰)が近づいてきて、にわかに焦りはじめています。けっこう、やばい。

 

別にそれが関係しているわけではないんだけれど、ここ一月くらい、長男くんに、少し厳しくしすぎている自分を感じています。

厳しいというかなんというか。

 

 

フワフワとごきげんで、常に鼻歌と共にあるムスコ。

ごきげんな彼が、どうかそのままごきげんな人でいられるように応援したいというのが、おおざっぱに、私の育児目標。

 

ここ最近、彼のその良さが、プニプニとしてごきげんな様子が少しずつ薄れて、まぁなんというか普通の人みたいなものに変化しつつあって、その展開に私が若干ビビっています。

それでその原因というか理由が。そもそもの、細かいアレやコレについて強い態度で言い過ぎている私なのだろうかと、急に、少し不安になってきたのです。

なんとなく、どうせ言い返してくるだろうからみたいな構えがこちらにもあって、そこをベースに想定しているから、まず始めの伝え方がキツくなるのではないか。。

だけどそもそも言い返してくるようになったのは、いちいち私が強く言い過ぎていたり、やりたいことをするのは自分のすべきことをやってからというスタンスを強調しすぎているからなんじゃないの?という気がしてきたのです。

 

 

◾️やりたいことをするのは自分のすべきことをやってからというスタンスは、人生においてとてもとても大切なことだと思っていて、これはもう、どうしてとかじゃなく理屈なしで基本に据えるべきことだと考えています。

実際にその姿勢を持って動くことを幼児に要求するのは簡単ではないけれど、つまり、そうできなかったからといって必要以上に怒ったりはしないけれど、大切なことだというのは、しつこくても、何度でも何度でも、言い続けるつもりだし、言い続けているわけです。

 

しかし考えてみると、その考えスタンスと、私のそもそもの育児目標が、あまりマッチしていないのではないか??という疑問にぶち当たりました。

言い方伝え方がキツいからではないかということについては、そういう場面も可能性も当然あるけれども、それはこちらの心がけ次第で改善できる点なので、改善を心がける、ということで一旦棚上げ。

 

悩みの核心は、やることやってからねという絶対姿勢と、ごきげんに鼻歌歌っている人を応援するという育児目標がマッチしていないのでは?という、ココなわけです。

 

やることやってからね、という声かけ意識付けが、彼の鼻歌やごきげん感を抑えこんでいる気がしてきた。不安。それは、私の望んでいる姿ではないです。

かといって、やることやってからねの大切さを伝えることをストップするのも…踏み切れない。両立は不可能?というかそもそも、私の人生じゃないわけで、人生レベルの価値観を伝えて若干要求もしている時点で、過干渉だろうか。いやでも、伝えるまでは親の役目だし、それはいいか。その後のムスコの反応、態度に干渉してはいけないということか。

 

気をぬくと忘れてしまいがちだけれど、だいたいの場面で機嫌がよく、無意識的に明るい雰囲気を纏っているというのは、本当に素晴らしいことで、最高の人間性です。成長に伴って少しずつ変わってはいくんだろうけれど、それに最高の価値を見出しているのは他ならぬ私であるのだから、彼の良さを伸ばすこと、抑え込まないことを最優先にしなくてはいけないです。改めて確認。

それでも、伝えたいことは伝える意識で(優先順位を意識!!)、様子を見ようと思います。

 

よぉ〜し。もうちょっと考えて動こ。

ママ頑張るぞ〜。

 

 

 

 

W杯

世間同様、そこまで関心を持っていなかったW杯。とはいっても、私は基本的にスポーツを見るのは好きなので、日本の試合くらいは、見るつもりではいた。

関係者にとってはいろいろとハードな大会だったんじゃないかと思うけれど、考えさせられる面も含めて、結果的にはとても、いいものを見せていただいたと感じている。

ゾクゾクと感動するシーンもたくさんあったし、代表選手の表情とか、仲間意識のようなものも見ていて単純に嬉しい気持ちになった。やっぱり、本気の本気でやっている人はかっこいいなぁと素直に思った。

前にも少し書いたけれど、個人的にはほんとうに、乾選手に萌えました。なんかこう、なにがと言われるとハッキリ言えないけど、めっちゃカッコイイうえに、やっぱどう考えてもかわいいじゃないですか。いや、ゴール決めたからとかじゃなくて。ベルギー戦のあとの泣いてるところとか、あの泣き方!!「え、どうしようかわいい…好き…♡」って思った人いっぱいいると思う。私だけだろうか…

 

それはさておき、今回のW杯で、日本について思ったこと。

 

■なんだかんだ気になるポーランド

最後10分のボール回し。これ、まぁ答えは出ないんだろうなぁとは思うけれど。リアルタイムでテレビで見ていたときは、セネガルが追いついたらどうするつもりなんだろう、ていうかポーランドにもう一点取られる可能性もあるんじゃないの?みたいな感じで、最終結果(日本が予選リーグ突破できるのかどうか)だけが気になっていて、ボール回しをしていること自体の是非にまで考えが至らなかった。

残り数分になったあたりで、スタジアムで応援しているサポーターの中に、すごく怒っている人がいるのを見て初めて、「あっ、これはそうか、ほんとはアカンやつなんだ。結果どうなるかじゃなくて、この試合に負けてるのに攻めないっていうのはスポーツの姿勢として不誠実だ。高いお金出して観に行ってる人の気持ち考えるとますますイカン気がする…。」と思いはじめた。(遅い!笑)

それでもやっぱり正直なところ、セネガル対コロンビアの試合が終わって日本が決勝トーナメントに進出できたというのを聞いた時点では、怒っている人がいるということを含めても、「あ〜よかった!よかったねホントに!!」みたいな気持ちの方が大きかった。

私個人の薄っぺらい感覚で感じることといえばこんな程度で、「少しモヤっとはするけれど、次に進めてまだ試合が観られるのだから、これはこれで、こういう世界最上みたいなレベルだと選択肢としてあることなんだなぁ。ふむふむ。」なんて呑気なことを思っていた。この時点では少なくとも、日本国内はおろか、世界中からも非難されることになるとは全く思っていなかった。

ただ、例えば自分がセネガルの人間だったら、今どう思うだろうか?ということは、リアルタイムで観ていたその時から頭にちらついていた。私がその時点で感じていた「少しモヤっとする部分」というのは、今この試合に負けているのに総合的な結果を考えて攻めないという、スポーツ精神に反する姿勢についてというより、例えばもう一つの試合会場で同じことが行われて、その結果自分の国が敗退することになったとしても、これで正しかった、良かった、進出したチームのみなさんおめでとうと、本当に思えるのか?ということだったと思う。

 

翌日、ラスト10分がものすごく叩かれているというニュースを見て驚いたし、少し悲しかった。

それでも、立場が逆でも、本当に相手チームを祝福できるか?という疑問は試合終了直後から心のどこかにあったわけで、「まぁそうだわな…」とも、同時に思った。

加えて日本サポーターの中にも「あんな試合してまで次に進まなくてよかった」とか「攻めてカウンター喰らって負けてた方がスッキリだった」とか「もう応援する気失せた」とか、かなり怒っている人のインタビューが放送されていて、これにはけっこう驚いた。それで生きていく、(最終的に残した成績でとても大きいお金が動くし自分の生活もかかっている)学校の部活とは違うプロの世界でもなお、目の前の試合だけを見てその試合に勝つためだけに全力を尽くす的な、ワールドカップ憲章?スポーツマンシップ?そういうものを、最終成績よりも本気で重視できる人たちもいるのだなぁと、なんだか呆然としてしまった。私は全然、そうは思えなかったなぁと。それこそ学生の部活じゃあるまいし、こういう世界では残した成績こそが大事っていう部分は絶対あって、いつでもどんどんチャンスがあるわけじゃないってことは今やってる選手たちが1番よく分かってて、だからこそ、「どうしても次へ」だったんじゃないのかなぁと。次の機会にはもう、トライすることもできない選手もいるわけで、「かっこよく負ける」ことよりも、今、「どんな手を使っても、ひとつでも高い場所へ、次へ」という、それだって強い気持ちだったんじゃないのかなぁと。

西野監督や実際にその舞台で戦っていた選手の中では、それこそ、「どんな手段でも、是が非でも、次へ」ということだったのではないか。全ての選択肢を考えて、日本のポテンシャルを加味して、決勝トーナメント進出へ1%でも可能性が高い作戦を採用したということで、見える形としては戦う意思がないようだったけれども、あの場面で攻めなかったというだけで、それはつまり「無理に攻めてカウンターを喰らうより、ノーファウルで1-0を死守」という作戦に基づいて、次へ進むために、やっぱり戦っていたのではないかと、選手たちを見ていると、そう思いたくなる気持ちもやっぱりある。

でもなー。

「たられば」を話しても仕方ないのだけれど、もし、もし、日本が今回のセネガルの立場で、敗退することになっていたら、日本中が、決勝トーナメントに進出したチームの作戦を叩きまくったと思う。そして、選手たちだけが、「ルール内だし、勝負の世界なので」と冷静な態度を保っている、そんな様子がありありと想像できる。自分たちが同じことをされて、心から納得できなかったり、文句を言いたくなったりモヤモヤしたりするであろうことは、やっぱり、正しくなかったんだろうな。ルールの範囲内だし違反はしてない、なんていうのは、日本が予選リーグを抜けたから言えることで。立場が逆だったらきっとすごくムカムカしただろうなぁと。。。

やっぱり自分の国の代表選手だし選手みなさんチャーミングで、知り合いでも友達でもなんでもないんだけど、でもなんだか、頑張ってるのに、その頑張ってる姿は絶対嘘じゃないのに、それなのに叩かれている姿を見ると、肩を持ちたくなっちゃうんだよね。かばいたくなっちゃう。

「あれはあれでよかったんだ」っていう意見も、もちろんあるけれど。

もちろん代表の選手たちをかばいたくなるしみんなかっこよかったけれど、でもポーランド戦のラスト10分に関しては、「誰がどの立場でやっても納得できる行動」ではなかった以上、個人的にはアウトだな、というのが、感想。うん。

 

■ミスした選手を叩きすぎな風潮

これ、ずっとあることだけど、そしてべつに日本に限った話じゃないんだろうけど。

今回のワールドカップに関して言えば日本のゴールキーパーのミスが必要以上に取りざたされていたように思う。

たしかにミスはしたんだろうし、その結果失点した場面はあったし、もちろんその瞬間はそりゃ、「えぇ〜⁈なんでなんでどうしたの〜⁈」って、思うよ、思います。わざとじゃないんだからとか、誰でも失敗はするとか、そういうフォローでなんとかなる世界ではないし、それで稼いで生きてるわけで、然るべき場面で然るべきパフォーマンスをするのが仕事なわけで、わかる、わかりますよ言いたい人の気持ちは。

それでも、今回に関しては、必要以上だと思った。その大声の非難が、少しも選手のためになってないし、少しも選手のためを思っての言葉じゃなかった。

なんでも優しく慰めればいいわけじゃ、もちろんないけれど、次に気持ちが向くように、期待を込めて言葉を選ぶべきだったんじゃないかと思う。

あんな高みに登って頑張れるくらいだから、メンタルは鍛えてあるし強いんだと思う。でもだからって、ミスしてもこたえないわけじゃないでしょう。やらかしたってことで、1番凹んでるのは、絶対本人でしょう。

自分の子どもを見ているように、親身になって本気になって応援した人、たくさんいたと思う。仮に自分の子どもが大事な場面でやらかしたとき、あんな大声で非難するのかな。しないでしょ。そこまで頑張ってきたものを、嫌になったりやめたくなったり、するような言葉を、かけたりするだろうか。しないでしょ。あんなに非難されたら、怖くて嫌になっちゃうし、そして、その様子を見ててゴールキーパーやろうとか、サッカーやろうとか、思う子どもが増えるのかな。増えないでしょ。

ミスした人間を叩くのは簡単だけど、本当はそうじゃない。誰かが不本意な失敗をしたときこそ、声を出して励まして、前を向く気持ちを持たせること。それがチームメイトのするべきことだし、そもそもそれがスポーツの良さじゃないのか。というようなことを、選手の何人かが言っていた。本当に、本当にそうだと思った。

おいしい楽しいところだけ拾って一緒になって盛り上がって。観る側だってお金を払ってのスポーツ観戦だから、それでいい面も、あると思う。

でも、真剣さとか本気とか、そういうものから得る気持ちや感動もあるわけだし。選手たちが言っていた、そもそものスポーツの良さも、自分にも、息子たちにも、根付くといいなと思う。

 

ベルギー戦は本当に本当に本当に本当に、惜しかったし、プレー自体にもすごく楽しませて頂いた。

それからしつこいけど、乾選手には、本当に、癒されました♡

考えさせられることもたくさんあり、いろんな意味で見応えがあり、素晴らしい大会だったなぁと。。

4年後が楽しみだ♡♡

選手のみなさん関係者のみなさん、本当にお疲れ様でした!!

 

素直が一番。

昨日は、職場の先輩から連絡があって、その内容は、その先輩の家庭に関するハッピーニュースで私個人には少しも関係のないことだったんだけど、それでも、ただただ単純に、とても嬉しい気持ちになれた。

私が、人の、まぁ言ってしまえば自慢話のようなものを、僻んだり妬んだりを少しもしないで心から素直に喜べたのは、果たしていつぶりだろうか。

嘆かわしいことだけれど、人のハッピーニュースを聞くとき、「いうて◯◯なんでしょ」とか、「◯◯のおかげじゃん」とか、そういう黒々した気持ちが、ほんの少しとはいえ確かに、いつも存在していて、その人達が妬ましい、羨ましい、と思う感情そのものと、そう考えてしまう自分への嫌悪感で、本当に悲しい気持ちになる。伝えられたニュース自体のハッピーさは、自己嫌悪や、相手を羨ましいと思うといった、ほんの少しのマイナスな気持ちで吹き飛ばされてしまう。

いつになったら、どんな話なら、私は人の嬉しい話楽しい話を、100%素直な気持ちで祝福できるんだろう。ずっとそう悩んでいる。

それほど人を羨むほど、自分の理想と異なる環境にいるのか?それほどのストレスが実際かかっているのか?というかそもそも、人の話をネガティブに捉えてケチをつけてしまういつものパターンに、原因だの理由だのはなくて、ただ、私がそういう人間なだけなのでは?もしそうならば、変わりたいけれど、具体的にどこからどんな風に変えていけば良いのか、ボンヤリしてしまって分からない。

薄っぺらだけど、でも、人から嬉しい話を聞いたときくらい、いい人になりたい。本気の本気でそう悩んできた。

 

だから、昨日は自分に驚いた。

なにかいつもと違うことがあったわけでもなく、むしろここ最近、旦那との関係や子育てについての悩みが深刻さを増していて、それによる自分の落ち込み方を考えると、とてもとても、人の自慢話を聞いて妬まずにはいられないような精神状態だったのに、なぜか、素直に「えー!!すごいすごい!!おめでとう良かったね!!頑張れ頑張れ!!」という気持ちで満たされた。本当に100%、その気持ちで心がいっぱいになった実感があった。

普段の感情の動きと違うから、瞬間、「おや?」という感じがした。その、「おや?」という感じすら、ものすごく鮮明に、ゆっくりと感じられた。

あぁ、私は今、嬉しいなという気持ちで満たされたんだなぁということが、それこそすっきりと解けた計算問題のように、頭と感覚両方で理解できた。こんなことって、今までにあっただろうか。子どものころにはあったかもしれないけれど、少なくとも記憶にない。それくらい、驚きの感覚だった。

自分にも、こういうことがまだあるんだなと、自分自身に、とても嬉しくなった。30代になっても、嬉しい話を100%喜ぶ日もある。

次もまた素直に喜べるとは限らないし、私のことだからきっと喜べないことの方が多い。

 

それでも、今日の、こういう自分の気持ちの動き方は、素直に喜びたい。

 

相性の悪さを認めたら楽になるという話。

つい先日、これはもう、聖人化するしかないという結論に至ったにもかかわらず、またやってしまいました。

 

原因はほんと〜〜〜〜に、くだらないこと。でも、言い方が気に障って仕方なくて(言い方が気に障るまでは、セーフ。そのあとがまずかった。)結局喧嘩になってしまった。聖人化することを目標に掲げている以上、言わないというのがもちろん最善なんだけれど、何も言わずにはいられなかった。

それならせめて、「そういう言い方は本当に嫌なので、やめてほしいです。」とだけ言って終わりにするべきで、それに対する旦那のリアクションから影響を受けるのは、違う。分かってはいる。

しかし。

やっぱこれ無理なんじゃないの。。。

 

それでも、

「今のあなたの言い方がものすごく嫌で腹が立った。なにも言わないというのがもちろん最善なんだけれど、何も言わずにはいられなかった。

それならせめて、「そういう言い方は本当に嫌なので、やめてほしいです。」とだけ言って終わりにするべきだった。あなたのその反応も含めて、その後どうなるかということから影響を受けるのは、違うし、今の喧嘩はそもそも私が黙ってるべきだったし、伝えたら伝えるだけで終わりにするべきだったので、私が悪いですすみませんでした。」と、素直に謝った。

これで終わりにして、私も次こそは、耐えてみせるぞと気持ちを切り替えたところに、「ていうか、そんなことが気に障るってこと自体が、ちょっともうおかしくね?」って話になった。

 

…おかしいかおかしくないかは、だれにも分からないし、私は、気に障るという話なのだ。それは私の自由で、おかしいかどうかをだれかに判定されるものではない。

さらに言わせてもらうと、「そんなこと」かどうかも、だれにも分からない。

 

相手は、こういうことが気に障るのだな、許せないのだな、というふうに、まず受け入れるという気持ちは、ないようで、ひたすらに、どちらがおかしいかを考えている。しかも、悲しいことに、どちらがおかしいかを考えている彼は彼で、いたって真剣なのだ。

私のしている、「だれにも強要できないしだれの反応も支配しようとしてはいけない」という努力を全力で無視するスタイル。

 

これはついに、認めざるを得ない。

相性が、悪いんだなぁと。

相性の悪さを何とか否定したくて、原因を追求して散々話し合ってきたのだけど、これはもう、否定できない。

 

そこでつい「相性が悪いんだねぇ、私たち。もうどうしようもないねぇ。。」と口走ってしまった。

また言い争いになるかと思いきや、

「まぁそれも夫婦なんじゃないの。」という、ここで謎の悟り。

笑ってしまった。

 

ムキになって否定してきたけれど、やっぱり多分、相性は悪い。

認めてしまったら何かが終わると思っていたけど、別に何も終わらなかったし、むしろ力が抜けた。

 

相性が悪いけど夫婦やってます、という人間も、いますよ。

だれかに言いたくなった夜でした。

 

p.sくっそースウェーデンも負けるか…

 

 

 

 

 

 

 

 

聖人化するしかない。。

ワールドカップ。日本の試合、選手たち、見てる全てに元気をもらってなんとか日々を過ごしてきましたが、すでにもらった元気は底を尽きました。(ワールドカップまだ終わってないのに!笑)私個人的には、乾選手に萌えまくりました。30歳にして、あの少年のような雰囲気はすばらしいです。萌える。ありがたや。ワールドカップについても、また書きたいなぁと思います。

 

 

■今日は全然、違う悩みを。

最近、長男くんの言動や態度に、私がものすごく敏感になってしまっていて、以前ならなんとか流せていたようなことも、黙っていられずに注意してしまう。

前にも少し書いたけれど彼は本当に挨拶ができなくて、家の中でも外でも、自発的に挨拶をしたことがほとんどない。私はそれが、不安で不安で仕方ない。

少し前までは、「不安に思うこと自体はセーフ。注意するなら言い方に工夫をする。その結果彼がどうなるかは、私の支配できることではないから、結果どうでもダメージを受けない。」というスタンスを、時には失敗しながらも、なんとか保っていた。

 

それが、ここ数週間、全然ダメ。

挨拶をしないのはもちろん、それ以外にも、とにかく長男くんがあまりにもやることをやらない(まだ4歳ではなくもう4歳!!泣)ので、逐一怒ってしまう。

この数週間の、自分のイライラというか、イライラしたときに我慢できずにすぐ口を出して、しかもガミガミと怒ってしまうのは、これは一体どうしたんだろう。ほんの少し前まで、無意識的に認識できていたのに、コントロールできる範囲とできない(してはいけない)部分の線引きが、曖昧どころではなく、無くなっている気がする。非常にまずい状態で、母子両者にとって悪影響なので、私のこの精神状態は問題だということはちゃんと認識している。

 

旦那は、この状態あるいはこの状態を私がどう認識して、どうしていくべきか考えているなどということは、全く想像すらできておらず、「単純にまだ4歳のこどもに細かいことでガミガミ怒る不機嫌な母親」というレッテルを私に貼って、「細かいことでガミガミ言うからダメなんだ」とか「できたらちゃんと褒めてやれよ」とか、分かったような風を吹かせていて、それもまた私のイライラに拍車をかけている。夜中の授乳とか、常に永遠にブツ切りの睡眠であることとか、離乳食の準備、保育園の準備、そういうことは全て私にやらせて自分は長男と朝までしっかり寝て、自分の準備だけして仕事に行って帰ってきて、準備されたご飯を食べて、そういうあなたが、諸々をやっているうえでイライラする私を非難するのは、完全にオカシイんじゃないの?という、イラつきが止まらない。

正論をぶつけてキレても、じゃあこうすりゃいんだろ的な態度で、私のイライラに少しは理解を示すとか、労うとか、そういう気持ちは微塵もない。いつだって、自分ファースト。相手がどう思っているか、どんな言葉が欲しいかなどということは、考えない。

……話が逸れました。旦那の、分かったような態度も私への非難も、イライラが加速する理由の1つではある、という話です。

 

■さて、本題に戻って、ここ数週間の私のキャパの狭さの原因はなにか。

長男くんの言動や、旦那の無理解は、理由の1つではあるけれど原因ではない。

長男くんの困った言動(というか私にとって都合の悪い言動)が、ここ数週間で急に増えたかというと、これまでと比較してもそこまで有意な差があるようには思えない。

①ただ、私が問題だと思っている不安な事項に関して、耐えても耐えても、改善の兆しが見られないということは言える。

不安事項が増えたわけではなくても、減ってもいないし改善の兆しも見られない。この状況は、我慢が限界に近づく理由のひとつにはなるのではないか。

自分で思っているよりずっと、頑張って頑張って我慢してきたものが、いよいよ限界に近づく。それは、ここ最近急に、流せていたものが流せなくなる、つまり簡単にイライラする、ガミガミ怒るようになった原因のひとつではないか?

 

②それから、私側にも原因はある。

単純に、疲れている。ものすごく。常に疲れている。加えて、上に書いたような、旦那へのイライラも常にある。

つまり、ベースからして、何がどうであれ常に、イライラしているようなものなのだ。

 

冷静に考えてみたところで、結局、考えられる原因はこの程度なのだ。馬鹿馬鹿しいくらい分かりきっていることでしかない。

 

①に関しては、もちろん、哀しい。それでも、やはり耐えるしかない。こちらの想いや要求に対しての長男くんのリアクションを、こちら側から支配することはできない。また、長男くんの反応によって、こちらがダメージを受けるというのも、本来、影響を過剰に受けている状態であって、良くない。親子であっても、個人の境界線を越えての侵入は許されない。ゆえに、①に対して私ができることは、哀しいけれど、ない。

 

それならば②を改善するべきなのだ。私自身の疲れをサクッと解消する方法などないので、旦那へのイライラをなんとかしたいところではあるが、これもまた例によって、相手の立ち振る舞いや話に対するリアクションを支配することはできないし、望まないリアクションからダメージを受けるのもあるべき姿ではない。

 

得られる結論としては、

・聖人になって、何も要求・期待せずに、その結果ダメージも受けずに、ただ目の前の現実を受け入れ、何も感じずに生きる。

・こちらの要求は伝える努力は続けるが、相手の反応をコントロールしようとしない。…これもある程度聖人めいてるけど…。

そして、自身の疲れをなんとか解消すべく努力する。寝る時間ないけど寝る。行く時間ないけどマッサージ行く。

 

あれ?つまり、聖人化するしか、道はない…?

まてまて、とにかく。

やはり結論としては、「必要以上に影響されないで、なんとか耐え抜くしかない」のだ。育児、というか人生(?)は、永遠にそうなのだ。それを、再認識した夜でした。

p.s  私はウルグアイを応援しています!笑

 

 

不公平に対する感情の処理が上手くならない。

昔から、世の中の不公平や、ずるい人に対して、イライラしたり納得がいかなかったり、とにかく上手く処理ができなくて、ずるいとかなんで?とか、そういう感情に引きずられることがよくある。

もういい年なんだから、世の中そういうもんだよと流せばいいことは百も承知で、表面上そうすることは余裕でできる。なんでもないような顔をして、非協力的な人にもニコニコ、頭を下げたり、ほかっておいたり。そうした方が波風が立たないことはよーく分かるし、それは特に抵抗なくできる。

ただ、心の中ではモヤモヤイライラし続けて、なんでこんなことがOKなの?とか、いつか絶対痛い目に会うはずだとか、そういうことを考えてしまう。

 

もっと若い頃はそれすらもできなくて、顔や態度に出たり、ずるい人にそれはずるいでしょと直接言ったり、闘っては泣いて、悔しくて、そういうことの繰り返しだった。

当然そういう人間はウザがられる訳で、味方だと思っていたというか一緒に文句を言っていた人達すらも、本当にアクションを起こしてしまうとそれは引くようで、離れていった。当時の私の感覚では、そういう人達すらもずるいわけで、不公平さが許せない以上ずるい人達と一緒にいるのはこっちだって嫌だし、グループみたいなものから浮いて、いわゆるボッチになった。

私は間違ってないと、それはわりと今でも思うけど、結果として一人ボッチなのは、悔しかったし辛かった。なぜ、私がこういう目に遭わなくてはいけないのか、考えても考えても分からなかったし、正直今でも分からない。ただ、世の中はそういうもので、自分がその中で波風を立てて、上手くやれなかったんだということは、分かる。

不公平を容認できないという根本が解決されていないので結局のところあまり変わっていないのかもしれないけれど、上記の学生生活もそれなりのダメージを私に与えていて、現在の私が表面上なにも思っていないような態度で過ごしているのは、ほぼこれの影響といってよい。

 

■はじめに戻ります。

世の中の不公平や、ずるい人に対して、イライラしたり納得がいかなかったり、とにかく上手く処理ができなくて、ずるいとかなんで?とか、そういう感情に引きずられることがよくある。

これが発動されるのは、やっぱり気を抜いているからだろうけど、旦那相手の時がほとんど。

 

昨日の夜また、例のごとく「だれだれさんがあーだこーで、そんなんずるいくない?ずっとそのままでいいわけないし。」というような話をしてしまった。

いろいろやりとりはあったんだけれども、最終的に彼から言われた一言が、「考え方が、攻撃的すぎる」というものだった。

 

そうなのか。攻撃的。。。

 

たしかに、いつか痛い目に会うに決まってるとか、報いを受けろとか、言ってることはある。でもそれは、やらなかったならやらなかったなりの、結果を引き受けるべきだということを主張しているのであって、気に入らないからやみくもに攻撃しているのとは、違う。

 

 

夫婦間で1番やってはいけないことだけど、でもやっぱり、「そこは分かってくれていると思っていた。」

 

でも違ったんだ。自分の思うように動かない人間を気に入らないから攻撃してる、そういう、ふうにしか見えてなかったんだ。「分かってくれてると思ってた」は、本当にダメなんだけど、だからそういうことじゃないと説明しなきゃ、いけないんだけど、でももう、言葉で説明する気も失せた。

だいたい、やらなかったならやらなかったなりの結果を引き受けるべきだということを主張も、気に入らないからやみくもに攻撃しているということと、私が思っているほど違わないのかもしれない。

 

でも。

「人がどうかなんて考えずに、自分がどうするのがよいかということに集中すれば、他人がずるいとか不公平だとか、そういうことは気にならないじゃん」と、殊勝な顔で言われて返す言葉もないけれど、ずるい人のせいで具体的な迷惑を今現在被っている私が、外では出せないイライラを少し家で愚痴ることだけで、それがそんなに攻撃的なんだろうか。本当に攻撃的な人はそれこそ外で相手に直接言うんじゃないの?とか。言い訳してしまう。

 

自分の中に攻撃的な考え方があるのなら、それは無くしたい。そのためには結局、ひたすらに黙るしかないんだろうか。ないんだろうな。

という結論を得た夜でした。悲しい。