Verdell

解決は求めていません。。。

嵐の正体。

長男くんは、もうすぐ4歳。

ほんの半年くらい前まで、次男の誕生が重なっていたというのも大きな原因ではあるんだろうけれど、長男くんのイヤイヤというか癇癪というか、とにかく本当に本当に、育児が辛かった。

ここ最近、嬉しいことに、ふと、「そこまで苦痛じゃないな。てか、楽しいかも?」というような気持ちが出てきた。(もちろん毎日、チマチマしたことでイライラはしているし長男くんとバトってはいます。)

 

それで、あの時は具体的に、どんなことが辛かったんだっけ…と思い返してみた。(渦中にいる時は、辛すぎる一生忘れないもう二度とやりたくないと、本気で思いつめていたのに、もうすでにぼんやりした記憶になっている。笑)

手帳の余白に殴り書きされている愚痴や、途中で終わっているケータイのメモたち。(保存しているところに執念を感じる笑)

 

 

■小さい頃の夜泣きとか寝ないとか眠いとか離乳食とか、そういうものとは別物だった、「イヤイヤ期」。

 

あまりにひどいので毎日朝が来るのが憂鬱で仕方なく、ちょっとやっぱり異常なんじゃないかと心配で心配で、育児書を読んでは長男くんと比べて、悩みは深まるばかりだった。

だいたいどの本を読んでも、ネットで検索しても、イヤイヤ期というのは3歳頃には落ち着くって、書いてあるんだけど、うちの長男くんの場合は3歳〜3歳半の半年が癇癪のピークだった。

このたった半年のズレが、心配で心配で、3歳過ぎてるのに落ち着くどころか酷くなってきてるし、この子はこのまま落ち着かなくて、そういう気質の子なんじゃないだろうか(というか私がそう育ててしまった?)と、朝起きた瞬間から始まる息子の不機嫌に、深刻に悩んでいた。

なんとか解決策を見つけようと必死で、機嫌をとったり厳しくしたり、あの手この手で頑張っていたけど、どれも全く効果が感じられなくて、この頃の日記的なものには、「辛い疲れたやめたい消えたい」といった暗黒ワードが延々と殴り書きされている。ポタポタ落ちたのであろう涙の跡もあったりして、悲壮感がすごい(笑)

朝「おはよう」と声をかけた瞬間から「こないで!」と怒り始め、何度も何度も言われてやっと食卓に座り、でも全然食べず。休日はテレビばかり見たがってトイレはできないし、オヤツは食べてご飯は食べず。さすがにテレビ見過ぎ…と思って外に連れ出しても本人は渋々ついてくる感満載で、こっちもゲンナリする。

この時期はのびのび好きなことを存分にさせてあげましょうとか、本には書いてあるけど、こういう場合でもそうなの?こういうのはただの自己中であって、いわゆる育児書に書いてある「好きなこと」とは違うんじゃないの?そんなふうに、いちいち全てのことを細かくジャッジしながらイライラしていた。

長男くんのイヤイヤ、癇癪には相当参っていたし、育児情報とのズレが本気で不安で、その不安を払拭したいがために、長男くんのイヤイヤを抑えこもうとしていた。

そのこと自体も、とてもとても辛かった。ひとつひとつの細かいことは忘れても、苦しかった思い出として、今でもドッシリと心の中に存在しているし、これからもきっと、存在し続ける。

 

ただ、過ぎ去った嵐の中身が全て、この苦しい思い出かというと、違う。

 

日記やメモを見直していると本当によく分かるけど、長男くんとの間の出来事、ストレスとは別に、この時期の辛さに拍車をかけていたものがある。

 

それは、まわりの人との温度差。

 

私がこれだけ参っていて、こんなことが心配で、どうして心配かと言うとこういうことが理由で、ただ私の思い通りにしたいわけでは全くなくて、どう考えてもおかしいと思うことがたくさんたくさんあって、なんとかしないと子どものこの先が不安で仕方ない。

そうやって言葉を尽くして話しても話しても、まわりの人(主に旦那だけど、その他の家族、保育園の先生、地域の保健師など)に分かってもらえなかった。

話せば話すほど、考えすぎだとか子どもを信じろとかそのうち収まるとか、そういうその場しのぎの答えしか返ってこなくて、真剣さが違うというか温度差があるというか、子どもに向き合う姿勢とか子どもとの距離とか、そういうものが私と比べてとにかくテキトー(適当ではない)に思えて、そのことがものすごくストレスだった。

特に旦那に対しては、まずグウグウ寝ているだけでも相当なイラつきを感じていたうえに、長男についての悩みを話しても話しても、考えすぎとか、まだ3歳なんだからとか、そんなに怒るなとか、いつか終わるよとか、そういう、どこか人ごとのような言い方が気に障って仕方なかった。

結局子育ての大変な部分にはほとんど触れないでいるから、側から見ているような距離感でのほほんとしていられるんだろうけど、彼だって子の親であることは揺るぎない事実なのに、心配じゃないの?不安はないの?自分の子どもでもあるはずなのに、同じ、親という立場の人間がこれだけ悩んでいるのに、内容を細かく把握しているわけでもなく、いわゆる任せっぱなしの状態で全然見ていないのに、何を根拠に「考えすぎ」と判断できるんだろう。

 

だいたい、考え過ぎかそうじゃないかなんてそんなことは本当はどっちでもよくて、問題はそこじゃないということに、なぜ想いが至らないんだろう。

「いつか終わるよ」なんて、一体どんな立場なん?自分も親じゃないの?と、今思い返してもイラつく。。。

 

あの時はとにかく、「こうすればいいじゃん」「だからダメなんじゃない?」「もっと気楽に」みたいな、そういうベクトルの声かけはいらなかった。

 

「不安だよね」

この一言でよかった。

この一言が、欲しかった。

 

上手くやれてるかどうかなんて、何十年後にしかわからない。これでいいとかああすればいいとか、大丈夫だとかいつか終わるとか、そんなことは本当は誰にも分からない。

 

ひとつひとつ、一人一人、全然違うのだから、子育て経験者にだって、本当は分からない。

優しい気持ちから、自分の経験から、「いつか終わるから」と言ってあげたくなる、その気持ちは嬉しい。

でも、「うちの場合は、もしかしたら終わらないかもしれない」

私はその不安に押しつぶされそうだった。

 

楽観からくる「大丈夫だよ」も、経験からくる「大丈夫だよ」も、渦中の私には無意味で、その言葉では全く前を向けないし、いつか終わるということは、そのいつかまでは終わらない訳で、これはいつまで続くのかという恐怖しか湧いてこなかった。それを、分かって欲しかった。だから、

「不安だよね」の一言が欲しかった。

 

 

次男もはや8ヶ月。子どもの数も年齢も性格も、あの時とは違うのだし、もちろん全く同じ状況が発生するわけではない。けれど、それでもある程度は、また繰り返される部分もあるんだろうと思う。

 

その日が来たら、自分に一言。

「不安だよね。」

 

白でも黒でも、なんでもいいから結論が欲しいママたちへ。

「不安だよね。」

 

嵐はひとつ過ぎ去ったけれど、また次の嵐がやってくるから、こういう細々としたことを覚えていることって、実はけっこう大事だと思う。

 

忘れないために、メモメモ。