ゼロトレランス?
今朝ラジオを聴いていたら、「ゼロトレランス」という言葉が出てきた。
そもそもの本題は別のところにあって、本質はこの言葉とは関係ない話だったのだけど、この、「ゼロトレランス」という言葉が、ここ最近は日本の教育の現場でもよく使われていますよとのことで、ちょっと気になった。
そのコーナーのおじさん(大学の教授のようだけど)の解説では、「トレランス」というのは簡単にいうと「寛容さ」のことで、それがゼロということは寛容さがゼロ、つまり、ルールはルール、事情は考慮しない、そういう考え方のことのようだった。
具体的に言えば、遅刻1回マイナス1点、欠席1回マイナス3点、トータル30点でどんな事情があろうとも退学。そういう風に、例外や酌量を完璧に排除して学生なり学校運営なりをコントロールするというやり方が、教育現場に割と見られるようになってきているらしい。もちろん、それに対する批判はあるみたいだけれど。
まずこれが本当に教育の現場で学生に対して適応されていると考えると、学生をスコアリングして、その点数のみを根拠に、彼らの学生としての良し悪しを判定していくことになる。
取得ポイントに応じて機械的に判定してしまえるので、客観性があり、とても楽だし、判定する側からすれば、意外と抵抗がないかもしれない。次のステップの教育機関へ推す場合にもどの場合にも、その点数に従って動けば間違いはないので、便利だろうなとは思う。
■ゼロトレランスが教育の現場に広がるのはどうしてなんだろう?
私が学生のころは、こんなような考え方はあまり見られなかったわけで、教育において(あるいは育児においても)は「正しさより優しさを」といった感じの姿勢が、一応あったように思う。私が通っていた学校が、まわりの学校と比べても規則の緩い学校ではあったのだけれど、それでも社会全体として、自分の頭で考えて、加減して、そして楽しみなさいという感じの優しさがあったと思う。逆に、やらなければやらなかっただけの結果が伴うことも理解できるように、学校や家庭で、失敗や成功を繰り返しながら、教え込まれたと思う。
ゼロトレランスという考え方が広がるということは、このような、優しさだったり結果・責任についての説明だったり、失敗や成功を繰り返す手間だったり、そういうものを一切排除する方向へ教育現場が向かっているということで、事情があろうがなかろうが、失敗や怠惰には詳細構わずマイナスのジャッジを下すようというように、教育者が変化していくことなのかなぁと思う。そう思うと、ちょっとこれは怖い。
それでも教育現場に広がりつつあるわけで、どうしてかなぁと考えると、そんなに考えなくても答えは出る。
①余裕がない。
教師はじめ教育に関わるスタッフに要求される事項が多すぎるんだと思う。
ひとりひとりの細かい様子や人間性、勉学以外にも評価されるべきするべき点があるのは、きっと現場の人間も分かっているんだと思う。だって、そもそも教育現場で働こうと思える人なんだもの。そういう優しさが、あまりの忙しさ、余裕のなさに飲み込まれてしまっているように見える。学生の失敗や怠惰そのものを見るよりも、その後ろにある背景や事情を探り、それを理解したうえで的確な言葉をかけることで、次の失敗を防ぐ、怠惰な姿勢を正す。本来はこうして手間をかけなくては、教育にはならないし、マイナス点をつけるだけでは本人の経験値にならない。けれど現実には、次から次へと問題は発生し続けるわけで、機械的にでも片付けないと仕事にならない。忙しさが、寛容さを奪う。寛容さをなくしたら、せめて仕事をしなければと、スコアリング・判定作業を徹底的にやるようになるのかなぁと思う。そうやって、人の失敗のみならず自分の失敗すらも許されない現場になっていってるのかなぁと。。
②学校生活が勝負のツール化している
学生である以上、学校生活の主体は勉強だけれど、その勉強はだれのために、なんのためにするのか。
いつからそうなったのかは知らないけれど、いわゆる一流大学に入りいわゆる一流企業に就職するために、勉強している学生が多い。自分の興味や向上心から勉強に励んでいる学生は絶滅危惧種なのではなかろうか。
いわゆる一流大学に入りいわゆる一流企業に就職するための、差し当たっての大きなステップとして受験があるけれど、受験というのは、本来自分との勝負というか、努力してきたことを発揮できるかという点で評価されるべきだけれど、残念ながらここ最近の受験というのは、完全に他人との競争になってしまっているので、これはもう是が非でも、他人を蹴落としてでも自分が勝つ必要がある。同じ試験を受けて得点数で競うなら話も単純だけれど、最近の受験では、学校での様子がとても重視される。そうなると単純に勉強ができるできないだけではなく、学校生活そのものまでも、受験のための、つまり他人との競争のためのツールになってしまう。学校生活が競争のためのツールになると、競争である以上、感覚的になんとなくというわけにはいかず、客観的な勝ち負けの決め方が必要になってくる。それで、ルールを逸脱することや決まりの不実行などについては、マイナスの採点をすることになる。競争のツールである以上、基準は絶対的であるべきで例外を作るわけにはいかず、事情があってもそれを考慮するわけにもいかないということなんだろう。
結果として、寛容さはどんどん失われて、ゼロトレランスに向かう。
育児や学校教育において、関係する人にはどうか寛容であることを諦めないでほしいし、私自身も常に寛容さを意識していたいけれど、それでも①についても②についても、社会的な傾向としては、しばらく変わらないんだろうと思う。
■そういう中で、学生自身は、また学生の子供を持つ親は、どう考えるか。
たしかに、不真面目や怠惰がマイナスに判定されること自体は、必要なのかもしれない。けれど、「減点されるよ」「競争に負けるよ」という伝え方ではやっぱりまずいのだと思う。マイナスの評価を受けるそのことよりも、その不真面目や怠惰の結果、自分にとってどんな不利益が発生するか、(身を持って経験できれななお良いけれど)他人との競争ではなく、先の自分にとってその振る舞いがどのように作用するかを自分で考えさせること、考えることが大切だと親が伝えること。それが必要なんだと思う。
それに、ひとりひとりの人間を判定するならば、実際の判定に反映させることはできなくても、やっぱり個人が抱える事情や背景は気にかけるべきだし、それからもちろん、誰かのマイナスのおかげで相対的にプラスになった自分を喜ぶような人間性はしっかりと否定しなくてはならない。
ゼロトレランスの概念に飲まれると、決まりの範囲内かどうか、減点されるかされないかにしかピントが合わなくなる気がする。
それは自分の学校生活、人生ではない感じがする。
ゼロトレ(そう略すらしい笑)の中にあっても、減点されるかどうかなどではなく、後の自分にとってどうか。常にそれを考えられる子になってほしいし、一緒に考えられる親でありたいと願う。
おわり。
嵐の正体。
長男くんは、もうすぐ4歳。
ほんの半年くらい前まで、次男の誕生が重なっていたというのも大きな原因ではあるんだろうけれど、長男くんのイヤイヤというか癇癪というか、とにかく本当に本当に、育児が辛かった。
ここ最近、嬉しいことに、ふと、「そこまで苦痛じゃないな。てか、楽しいかも?」というような気持ちが出てきた。(もちろん毎日、チマチマしたことでイライラはしているし長男くんとバトってはいます。)
それで、あの時は具体的に、どんなことが辛かったんだっけ…と思い返してみた。(渦中にいる時は、辛すぎる一生忘れないもう二度とやりたくないと、本気で思いつめていたのに、もうすでにぼんやりした記憶になっている。笑)
手帳の余白に殴り書きされている愚痴や、途中で終わっているケータイのメモたち。(保存しているところに執念を感じる笑)
■小さい頃の夜泣きとか寝ないとか眠いとか離乳食とか、そういうものとは別物だった、「イヤイヤ期」。
あまりにひどいので毎日朝が来るのが憂鬱で仕方なく、ちょっとやっぱり異常なんじゃないかと心配で心配で、育児書を読んでは長男くんと比べて、悩みは深まるばかりだった。
だいたいどの本を読んでも、ネットで検索しても、イヤイヤ期というのは3歳頃には落ち着くって、書いてあるんだけど、うちの長男くんの場合は3歳〜3歳半の半年が癇癪のピークだった。
このたった半年のズレが、心配で心配で、3歳過ぎてるのに落ち着くどころか酷くなってきてるし、この子はこのまま落ち着かなくて、そういう気質の子なんじゃないだろうか(というか私がそう育ててしまった?)と、朝起きた瞬間から始まる息子の不機嫌に、深刻に悩んでいた。
なんとか解決策を見つけようと必死で、機嫌をとったり厳しくしたり、あの手この手で頑張っていたけど、どれも全く効果が感じられなくて、この頃の日記的なものには、「辛い疲れたやめたい消えたい」といった暗黒ワードが延々と殴り書きされている。ポタポタ落ちたのであろう涙の跡もあったりして、悲壮感がすごい(笑)
朝「おはよう」と声をかけた瞬間から「こないで!」と怒り始め、何度も何度も言われてやっと食卓に座り、でも全然食べず。休日はテレビばかり見たがってトイレはできないし、オヤツは食べてご飯は食べず。さすがにテレビ見過ぎ…と思って外に連れ出しても本人は渋々ついてくる感満載で、こっちもゲンナリする。
この時期はのびのび好きなことを存分にさせてあげましょうとか、本には書いてあるけど、こういう場合でもそうなの?こういうのはただの自己中であって、いわゆる育児書に書いてある「好きなこと」とは違うんじゃないの?そんなふうに、いちいち全てのことを細かくジャッジしながらイライラしていた。
長男くんのイヤイヤ、癇癪には相当参っていたし、育児情報とのズレが本気で不安で、その不安を払拭したいがために、長男くんのイヤイヤを抑えこもうとしていた。
そのこと自体も、とてもとても辛かった。ひとつひとつの細かいことは忘れても、苦しかった思い出として、今でもドッシリと心の中に存在しているし、これからもきっと、存在し続ける。
ただ、過ぎ去った嵐の中身が全て、この苦しい思い出かというと、違う。
日記やメモを見直していると本当によく分かるけど、長男くんとの間の出来事、ストレスとは別に、この時期の辛さに拍車をかけていたものがある。
それは、まわりの人との温度差。
私がこれだけ参っていて、こんなことが心配で、どうして心配かと言うとこういうことが理由で、ただ私の思い通りにしたいわけでは全くなくて、どう考えてもおかしいと思うことがたくさんたくさんあって、なんとかしないと子どものこの先が不安で仕方ない。
そうやって言葉を尽くして話しても話しても、まわりの人(主に旦那だけど、その他の家族、保育園の先生、地域の保健師など)に分かってもらえなかった。
話せば話すほど、考えすぎだとか子どもを信じろとかそのうち収まるとか、そういうその場しのぎの答えしか返ってこなくて、真剣さが違うというか温度差があるというか、子どもに向き合う姿勢とか子どもとの距離とか、そういうものが私と比べてとにかくテキトー(適当ではない)に思えて、そのことがものすごくストレスだった。
特に旦那に対しては、まずグウグウ寝ているだけでも相当なイラつきを感じていたうえに、長男についての悩みを話しても話しても、考えすぎとか、まだ3歳なんだからとか、そんなに怒るなとか、いつか終わるよとか、そういう、どこか人ごとのような言い方が気に障って仕方なかった。
結局子育ての大変な部分にはほとんど触れないでいるから、側から見ているような距離感でのほほんとしていられるんだろうけど、彼だって子の親であることは揺るぎない事実なのに、心配じゃないの?不安はないの?自分の子どもでもあるはずなのに、同じ、親という立場の人間がこれだけ悩んでいるのに、内容を細かく把握しているわけでもなく、いわゆる任せっぱなしの状態で全然見ていないのに、何を根拠に「考えすぎ」と判断できるんだろう。
だいたい、考え過ぎかそうじゃないかなんてそんなことは本当はどっちでもよくて、問題はそこじゃないということに、なぜ想いが至らないんだろう。
「いつか終わるよ」なんて、一体どんな立場なん?自分も親じゃないの?と、今思い返してもイラつく。。。
あの時はとにかく、「こうすればいいじゃん」「だからダメなんじゃない?」「もっと気楽に」みたいな、そういうベクトルの声かけはいらなかった。
「不安だよね」
この一言でよかった。
この一言が、欲しかった。
上手くやれてるかどうかなんて、何十年後にしかわからない。これでいいとかああすればいいとか、大丈夫だとかいつか終わるとか、そんなことは本当は誰にも分からない。
ひとつひとつ、一人一人、全然違うのだから、子育て経験者にだって、本当は分からない。
優しい気持ちから、自分の経験から、「いつか終わるから」と言ってあげたくなる、その気持ちは嬉しい。
でも、「うちの場合は、もしかしたら終わらないかもしれない」
私はその不安に押しつぶされそうだった。
楽観からくる「大丈夫だよ」も、経験からくる「大丈夫だよ」も、渦中の私には無意味で、その言葉では全く前を向けないし、いつか終わるということは、そのいつかまでは終わらない訳で、これはいつまで続くのかという恐怖しか湧いてこなかった。それを、分かって欲しかった。だから、
「不安だよね」の一言が欲しかった。
次男もはや8ヶ月。子どもの数も年齢も性格も、あの時とは違うのだし、もちろん全く同じ状況が発生するわけではない。けれど、それでもある程度は、また繰り返される部分もあるんだろうと思う。
その日が来たら、自分に一言。
「不安だよね。」
白でも黒でも、なんでもいいから結論が欲しいママたちへ。
「不安だよね。」
嵐はひとつ過ぎ去ったけれど、また次の嵐がやってくるから、こういう細々としたことを覚えていることって、実はけっこう大事だと思う。
忘れないために、メモメモ。
しつけとは。。
これまで私がきちんと注目していなかっただけで、ここ最近急にこういう事件が増えたわけではないんだろうけれど。
私はあまり子ども関係の諸々に神経質な方ではないし、ナイーブになることも少なかったけれど、やはり親になった影響は少なからずあるなと感じる。
ここ最近の、子どもが犠牲になる事件については、テレビや新聞で少し知るだけでも胃がひっくり返りそうになって直視できない。
まだ5歳の子どもが、あんな悲惨な世界しか知らずに死んでしまうなんて。
あの子の中ではあれが、生きるということだったと思うと。。。
あんなものは、あんなやり方は間違っていて、あなたはそんな風に扱われる存在では絶対にないと、言ってあげたい。
どんなに辛い、恐ろしい毎日だったか。
それでも両親を頼っていただろうし、どんな親でも好きだから、頑張っていたんだろうなと思うと、やり切れない。
報道で出ている、反省文のようなものは、もうおぞましくて内容まで見ることができない。テレビから聞こえてきそうになるとチャンネルを変えてしまう。
捕まった人間は、しつけのつもりだったと話しているようだけど、ほんとのほんとに、しつけのつもりだったという可能性も、あり得るように思う。だから恐ろしい。
しつけ。
あの事件はもちろん常軌を逸しているし、比較対象にはならないけれど。
5歳まで育ててきて、できるできないやるやらないを極度に重視していた点を考えると、「乳幼児を、泣き止まない等の理由で育児放棄含めて虐待」というケースとは、また違うところに原因があるように思う。親が親になりきれていないとか、単純に親の怠惰とか、それだけが理由ではないのではないか。
失敗したり、(親の立場からは)子どもが自分でやるべきことをやらなかったりとか、そういうときに過剰に罰を与える、暴力をふるうというのは、つまりそれだけ、子どもに対しての要求が(一般的な感覚からすると異常に)高いということだけれど、「まだ5歳の子どもにそんなことを要求して、できないからって叱る(結果として虐待)なんて、育児ってそういうことの連続だし、それに耐えられないなんて親になる準備が全然できてない、親として不適格、そんなところに生まれてきた子どもがかわいそう。」というだけの話ではない。
「子どもに対しての要求、希望、願望」というのは、これはきっと、どの親にもある。
普段子どもに対して、不必要な期待や心配はしないように、と思っているけれど、でもやっぱり私の中にもある。
けれど、それはあくまで、子ども本人の今後や今を思っての心配であるべきで、子どものできるできない上手い下手を、保育者(主に親だと思うけど、祖父母含め家族)の、人間としてのあるいは社会的な評価につなげることは、絶対にしてはいけないと考えている。
具体的に。
例えばうちの息子くんは、年少さんになった今でも、外でも家でも挨拶があまりできていない。
私は、挨拶ができないことがとても心配で、なんでしないんだろ?と考えてみたり、挨拶は?と促してしまったり、まぁ軽く悩んでいる。
ここで、「もうすぐ4歳になろうとしてるのに、挨拶がちゃんとできなくて、いいのかなぁ。この先ずっとこの調子だと、人に失礼だし、いろいろと心配…。これだけ挨拶しようねって言ってるのに、なんでしないんだろ。。。」と考えてしまうことは、結論から言うと、良くはない。いつ挨拶をするようになるかは子ども本人が決めることで、挨拶はしてもされても気持ちがいいよと伝えたら、あとは本人に任せる、信じる、考えない。万事においてこれくらいじゃないと、本当に子どもを1人の人間として対等に尊重しているとは言えない。
しかしまぁ、現実的には、タイムリミットがそこら中にあるし、相手のいる社会で生きているわけなので、上記のように徹底的に子どもを信じて任せきるというのも、ちょっと難易度が高すぎる。
だから、そう考えてしまう、というのはセーフだと思う。単に感情の動きであって、それは仕方ないこと。子どもに伝えるか伝えないか、伝えることにするなら言い方に、工夫の義務は生じるけれど、考えてしまうところまでは、仕方ないし、自由。だからセーフ。
セーフだし、絶対、どの親にもある。
問題だと思うのは、この例えの場合、親が、「あなたが挨拶できないと、私たち(の親としてのスキル→人間としての評価)がちゃんとしてないみたいに思われるでしょ」という思考回路に陥ることだと思う。
また逆に、子どもがなにかいいことが出来たりすると、「●●さんのうちはしっかりしてるんだね〜」と親が褒められるいう展開もよくあると思うけれど、それも、親側が、子どものできるできないによって自分の人生的な評価を下されるような気になるので、問題だと思う。
完全に私個人の推測というか想像の域を出ないけれど、
今回の事件というのは、
・子どもが「できる」と、良い親→良い育児ができている良い人間だと評価される
・子どもが「できない、やらない」と、ちゃんと教育ができていない→できない人間だと判定される
こういう考えが行き過ぎて、こんがらがって、どうにも止まらなくなったという一面も、あったんじゃないかと考えてしまう。
もちろん、どんなことも理由にはならないし、そんなことが事情になるとは思っていない。
ただ、子どものできるできないやるやらないで、自分が良いとか悪いとかジャッジされているような気分になることって、私はけっこうある。
「●●●してないとママが○○だって思われるじゃん!!」って、キレながら言ったこと、多分ある。
だから、人ごとじゃない。。。
あそこまでなるのにはまた、違った原因や背景が作用していると思うけれど、私にも、子どものできるできないやるやらないを通して自分が評価されている気になることはあるわけで、こじらせて行き過ぎた言葉や育児につながらないとも限らない。
自分自身や社会からの評価を気にした、自分のための言葉は、しつけとは正反対。
しつけとは、伝えて待つこと。
今一度、心に刻む今日この頃です。。
女性が輝く社会(笑)
現在本当にありがたいことに育休を頂いて、お休み中。
ほんとに育児だけをして丸っ切り休んでいるのもアレだし、もちろん、勉強は大事だし自分のためにもなるから、休み中に、仕事に関する試験をひとつ受けてみようと思った。
受験に当たって上司の署名が必要で、話をしてサインもしてもらい、受験に関しては了解を取った。(別に強制でもなんでもないし、受かったからなんだというものでもないので受験すること自体に許可がいるわけではないけれど)
先日、その試験向けの講習会のようなものがあった。
半年以上現場から離れているし、いきなり本番というのはちょいとリスキーな感じがするので、講習会でポイントを押さえるなり実技の練習なり、できれば良いと思って、行くことにした。
実技がある試験なので、必要な道具は職場の使っていないものを借りて、(もちろん了解を得て)行ってきた。
講習会に参加した結果、実技が、これは練習しないとやばい。。。という感触だった。行ってよかったー!(笑)
後日道具を返しに行ったとき、実技が思ったよりもやばい感じだったので練習させてほしいと頼んだ。育休中だけれどそこの職員だし、そもそも仕事でしていたことを、感覚を思い出したいから少し練習させてくれという話なので、当然OKがでるものと思っていた。もちろん時間帯は、業務の邪魔にならないようにするし、勝手にきて勝手に練習して帰るので、いいですよね?という感じで。
しかし。まさかの、練習は許可してもらえなかった。練習中に怪我をされると労災にならないから、というので、もちろんそれは承知しているし、万が一怪我をしたとしても、自分で医療機関にかかるからこちらには迷惑かけません、と言ったら、「そういう問題じゃなくて、怪我したのが伝わったら育休中の人間に何させてるんだってことで、俺が責められるだろ?」との返答。
そんな…。。。練習させてもらえないでぶっつけ本番なんて、受からねーよ。
資格取ろうとか、勉強しようとか、そういう風に、頑張ろうとしてる人間に対してそれはないでしょ。
「俺が責められるだろ?」って。。。
休みの日に鍵開けに来てくれとか、そんなこと言ってなくて、業務時間内に来て、自分1人で勝手に練習するだけなのに、それも試験のためなのに、それも何かあったら自分が責められるからって理由でさせないなんて、酷すぎるでしょ。
それが上に立つ人間のすることか。
頑張ろうとする部下を応援する気持ちは全くないってことですね。それがあなたの考えで、そしてそういう考えの人間を昇格させていくのが、この組織の考え方なんですね。
ひさーしぶりに、萎えた。
せっかく頑張ろうと思って勉強してたけど、なんにも練習できないんじゃ、受かりようがない。
復帰してからまた挑戦すればいいんだけど、そういう問題じゃない。
こういう人の下で働くことに心底嫌悪感。
育休取るのも嫌味を言われ。
休んでいる間に少しでも、と思って練習しようにも、迷惑そうにされ。
子どもを産む選択をすると、途端にやりづらくなる職場。組織。
久々に、やめたくなりました。
イライラしない育児。
私はまだママ歴4年の若輩者なので詳しく知らないけれど、イライラしない育児、怒鳴らない子育て、みたいなの、流行りですよね。
流行りっていうと廃りもあるみたいだけど。
実際、育児方針的なものにも、流行り廃りってあるんだろうか。イライラしない怒らない育児が流行した時期は過去にもあったんだろうか。どうなんだろう。
だいたい、どうしてこういう育児方針が発生してきたのだろう。
怒鳴られて育てられた人が反面教師的に?
怒鳴られて育てられた人間とそうでない人間とでは、保育者の立場から見ると有意に差があるから?あるとして、その差というのはどういうこと?その違いに良い、良くないがあるということ?
私自身も、別に、こういう育児に反対なわけでは決してない。むしろ、そうありたいと思っていたし、イライラすること、怒鳴ることは子育てに良くない、と漠然と思ってきた。できるなら。できることなら、そういう、イライラしない親でありたいとは思う。
でも、イライラしない親でなくてはならない、怒鳴る親は良くない、そういう風に思いつめると、辛かった。
辛すぎた。
育児が楽しくなかった。
どこまで耐えられるかみたいな、いつか終わるとか言われても、そんな漠然とした言葉では全然前を向けないし、そのいつかは本当にいつなんだろう、という恐怖しか湧いてこなかった。
子育てが全然楽しくなくなって、いつ終わるんだろういつ終わるんだろうとしか思えなくなってた時期があった。
冷静に考えたらそんなのオカシイので、怒鳴らないことを、そこまで重視するのをやめた。自分には無理だと諦めたし、子どもが明らかに相手をイラつかせることをしているのに、私だけが一方的にイライラしないように耐えるなんて、そんなのいくら相手が子どもでも納得がいかないので、普通にイライラすることにした。怒鳴らない、イライラしないことに関して、0か100ではなく、なるべく…くらいに目標ラインを下げた。
だからというわけでもなんでもないけど、保育士さんでも助産師さんでも地域の保健師さんでも、ママにアドバイス的なものをする立場のだれでも、ママに「怒鳴らない育児」「イライラしない子育て」を刷り込まないでないでほしい。
よほど意気込んで準備をしている妊婦さんは別だけど、ほとんどのママは、出産して育児が始まって、授乳から始まりいろんなお世話の中で、これでいいのか悪いのか判断材料がなくて不安になって、とにかくネットや本で調べるんだと思う。
逆に、なんとなく子どもと意思疎通が取れるようになるころからは、子どもの性格というか気質みたいなもので心配な部分が出てきて、ネットや本でそういう類のことを調べ始めて、きっとそこで初めて、「怒鳴らない育児」「イライラしない子育て」に出会うんだと思う。だからそれ以前のなにも知らない、判断材料のない、ママの頭がなんでも吸収するスポンジ状態のときや、あるいはだんだん自我が出てきてママが不安になっているタイミングとか、とにかく周りの言うこと全部吸収しちゃいそうな状態のときに、「怒鳴らない育児」「イライラしない子育て」を刷り込まないでないでほしい。本当に鵜呑みにしちゃうから。
ネットも本も、結局はほんとかどうかよく分からなくて、実際に会って話をする人の言うことって、その時期の私にとっては、小児科医かそこしか頼るところがないから、全部正しく聞こえるものだった。
面と向かって話をする人に「怒っちゃダメよ、イライラは良くないわよ」と言われると、なんとなくイライラしていたり、まさに怒ったり泣いたりながら悪戦苦闘している最中だったからだろうけど、すごく責められているような気持ちになって、涙が出そうになって、聞きたいことはあるのにそんなことは吹っ飛んでしまって、とにかく、あぁ私が良くないんだなぁ…という落ち込みに囚われてしまった。
里帰りせずに嫁ぎ先で出産したからか、お義母さんが気を遣ってくれて、退院後に助産師さんの出張サービス的なものを頼んでくれて、数日間助産師さんが家にきて、赤ちゃんの世話をしながら私の様子を見て、ケアなりアドバイスなりをしてくれるというものだったんだけれど、その時の助産師さんがとにかく、「イライラするからダメだ」みたいな言い方の人で、悪気は全くなくて、ひたすら真面目なだけなんだろうけど、初めての産後の不安定な時期というのもあって、一言一言がグサリグサリと刺さって、つらくてどうしようもなかった。授乳がうまくいかないのも、うんちが少ないのも、私がイライラしてるからなのか…みたいな気持ちになって(さすがにそんなことはありえないでしょ笑)、悲しいし不安だし、そのたった数日の間に乳腺炎にもなって、それもイライラ→授乳がうまくいかない→乳腺炎だみたいに言われて、とにかくとにかく、私がイライラする(今にして思えばそんなにイライラなんてしてない)からいけないんだ、ということが、心にこれ以上ないくらい刻みこまれた。
子どもの性格や気質なんかは、ほんとに誰にもどうしようもないもので、一生懸命やってるからってこちらの想いが通じるものでは全然ない。
それでもやっぱり、子どものステキなところ、心配なところは全部、親のおかげだったり親のせいだったりするように感じてしまう。それくらい、頭の中が子どものことでいっぱいになるくらい、子どものことを考えている、そこに「怒鳴るからダメなんです」「イライラするのは子育てに悪影響です」とバーっと言われると、そうか、この子のこういうところは、私がイライラするからこうなんだ、怒るからこうなっちゃったんだ、とかって、全部親のせいだと考えてしまう。
新生児期の強烈なトラウマも作用したと思うけど、長男のイヤイヤ期はもう、辛かった記憶しかない。朝が来てまた一日が始まるのが嫌でたまらなくて、彼と関わる時間を1秒でも少なくしたいとまで思いつめていた。
今考えれば、理由なんかないけどいきなりイヤイヤが始まる→私がイライラする、というだけの、よくある話なんだけど、当時の私の頭の中では、まず前提として、彼のイヤイヤ、イライラの原因は私(のイライラ?)にあるとなっていたので、癇癪が始まるたびに、「今の私のなにが、どこが悪かったの?」という感じで真面目に取り組んでいたので、しかもそれが一日に何度でも発生するので、もう発狂しそうだった。
イヤイヤを回避するために気を使って動けば早いんだろうけど、「子どもは家族の一員とであって中心ではない」という考えを捨てきれず、ワガママをワガママのまま流せない頑なさも私の中にあって、ダメなことはダメと言い続けた。
でも、私の気持ちを通すために結局はイライラして、彼の癇癪につながっているのかと思うと、やっぱりイヤイヤとか癇癪とかは私が原因なのか…みたいな気持ちになって、もう、子育てをしているのか、イライラしないために生きているのかよく分からない状態になっていた。
もう一度言うけれど、
子どもの性格や気質なんかは、ほんとに誰にもどうしようもないもので、一生懸命やってるからってこちらの想いが通じるものでは全然ない。
授乳がうまくいかないとか全然眠れないとか、ほんとにいろんな理由でイライラするのが育児だと思う。そんな、一生懸命やってるからこそのイライラで、子どもが癇癪持ちになったりワガママになったり、するわけない。なんでもっと早く、気がつかなかったんだろう。
大人の理不尽なイライラを正当化してはいけないけれど、イライラしない育児なんて、目指さなくてもいいのではないか。
ママを助けるために活動している方には、どうかまず、「人間だから、頑張ってるのにうまくいかなかったり、眠れなかったりすれば、もちろんイライラすると思うよ」とママに言ってあげてほしい。なかなか自分で自分のイライラを肯定することは気が引けて難しいから、親が少しくらいイライラしたって、それで子どもがすごく癇癪持ちになるとか、そんな計算問題みないな話じゃないよ、それくらいは大丈夫だよ〜って言ってあげてほしい。
もちろん不必要にイライラしたり、子どもの扱いが雑になったり、そういうのは良くない。
だからこそ。イライラしない育児よりも、喜怒哀楽のある楽しい育児をまっとうしたいと思う今日この頃。
ここで質問です。
院卒で就職した大手の会社は体力的にキツイとか抜かして1ヶ月で辞めて、実家に帰ってきてダラダラダラダラしているだけでも迷惑なのに、本当にあくせく働いて子どもを大学院(モラトリアム期間の延長としか思えないのがナンダカナではあるが、まぁ院卒は院卒)まで出してくれた親に向かって、「あくせく働いてばかりで、それだけで終わる人生なんて最悪だし、俺はぜってーそんなんやらねー。」と言い放ち、それでも親の作るメシを平気で食べる脛齧りのガキをギャフンと言わせたいのだけど、こういう、いわゆるクソガキという感じの生き物には、どういう言葉、言い方が効果的なんだろうか。
自分の子どもにそんなこと言われたら泣くなー。。萎え…
皆さんのご意見いただきたいっす。
ブレない基準をもちたい。
関学のQBが例えば再起不能、下半身不随、最悪死亡とか、そういうレベルの状況になっていたとしても(可能性としては充分あるように見える)、それでも世間というのは、宮川君も被害者だと、きちんと言うのだろうか。仮定の話をしても確かめようがないけれど。
感情論ではもちろん、彼の抱えていた事情、置かれていた立場、そういうものが考慮されなくちゃあんまりにも酷いと思う。
会見での姿勢や言葉の選び方から、彼は本当に真面目、誠実、丁寧な人間なんだなと感じたし、また、20歳の男子大学生があんな展開に身を置いているにしては、とても落ち着いている印象だった。
きっと、まわりの気持ちや自分の過去未来、そういうものをちゃんと理解して、その上で、これまで努力してきた人なんだろうと思う。
練習、試合に出してもらえなかったり日本代表を辞退させられたり、嫌なこと理不尽なことが途切れなく続く。
でも辞められない。
今のこの状況は悲惨だけれど、辞めたらどうなるか、それもまた恐ろしい。
自分でやりたいと言ってはじめたこと。家族をはじめたくさんの人に応援してもらっていること、期待されていること。
これのためにきっとものすごく時間もお金がかかっているだろうこと。負担をかけていること。
必ず将来に繋げなくてはならない。
辞めても他にはなにもできないしどうしていいかも分からない。
積み上げてきたものが、辞めたら無になる。負けたと判定される。逃げた自分を許せない、まわりの人にたちもきっと許してくれない、ガッカリする。
彼のような真面目な性格の人間がそう考えて悩み苦しむだろうこと、簡単に辞めるという決断を下せないだろうことは、汚れた大人には容易に想像できてしまうんだと思う。
彼の人間性を利用して、不要な迷い、苦しみを与え続けた。
宮川君が内田さんはじめコーチ陣から受けていた仕打ちは、紛れもなく、いじめだと思う。本当に本当に本当に、最低な大人たち。
★冒頭の疑問に戻ります。
監督コーチ陣が地獄行きなのはもう揺るぎない決定事項なんだけど、関学のQBの怪我が今回とは次元の違う深刻さだった場合、宮川君に対して、それでも今回と全く同様に、彼も気の毒だなあんまりにもかわいそうだなと、本当に私はその展開でも思えるのだろうかというのが自分の中でモヤモヤ。。。
相手の怪我の程度が全然違ったとしても、それまでの経緯や受けていた苦しみは同じならば、あんなことさせられて、本当に胸が痛む、宮川君もかわいそうだと思えないとおかしいことになる。
でも多分、私の場合、相手の怪我がもっと重症だったら、今回と全く同じ様には反応していないと思う。なんで誰かに相談するとか、部活辞めるとかしなかったんだろう、いくらなんでもコレはダメだって分からなかったのかなとか、かわいそうだとは思いつつも、あくまでも彼は加害者で、事情があろうが悪いことは悪いというような感じで、責めるような反応をしたと思う。
事情があろうが悪いことは悪い。
でも、そうせざるを得ない、のっぴきならない事情があった。
う〜〜〜ん。。。
こういうこと(分かりやすく言えばいじめなんだろうけど)は学校にも社会にも満ち満ちているし、自分自身や、自分の子どもの身にも、程度は違えど起こりうることだけに、どういう心構えでいるのが正しいのか考え込んでいる。。
「アイツをいじめなきゃお前をいじめるぞって言われたから●●くんにいじわるしちゃった」と、チビたちに相談されたら、私はなんと答えるのだろう。瞬間的に、我が子よりも、やられた側の子の様子が気になる。でも、息子が受けた傷は?ショックは?放置するわけにはいかない…でも、実際にうちの息子にいじめられている子がいるなら、そんなことはしてはいけないと息子に伝えることも、しなくてはいけない。
しかし。せめて、それはいけない、間違いだと言う前に、どんな理由があったのか聞いてあげられるくらいの余裕はもっていたい。
でも。まずなによりも一番に、間違いだよいけないよとやった人間が叱られていないと、やられた側の子の傷がもっと深くなるんじゃないかと不安。だって、理由を先に聞いている時点で、どんな理由があってもそれは間違いだっていう叱りではないわけで、理由があれば許されるみたいな雰囲気を帯びている。やられた側からしたら、そんなの許せないし、理由なんて関係ない。
人間関係にいまだにグルグル悩んでいる私が、子どもたちの人間関係についての質問悩みを聞いたとき、どんな答えを出せるんだろう。。
うー。
ブレない基準をもちたい。。
なりたい自分がわからない。。
それまでの人生やしてきた経験で、もちろんもちろん、人それぞれなんだろうけど。
それでも、世の人たちは、自分にどう言い聞かせているのかな、どう考えて生きてるのかなと、思ってしまう。。。