Verdell

解決は求めていません。。。

ゼロトレランス?

今朝ラジオを聴いていたら、「ゼロトレランス」という言葉が出てきた。

そもそもの本題は別のところにあって、本質はこの言葉とは関係ない話だったのだけど、この、「ゼロトレランス」という言葉が、ここ最近は日本の教育の現場でもよく使われていますよとのことで、ちょっと気になった。

そのコーナーのおじさん(大学の教授のようだけど)の解説では、「トレランス」というのは簡単にいうと「寛容さ」のことで、それがゼロということは寛容さがゼロ、つまり、ルールはルール、事情は考慮しない、そういう考え方のことのようだった。

具体的に言えば、遅刻1回マイナス1点、欠席1回マイナス3点、トータル30点でどんな事情があろうとも退学。そういう風に、例外や酌量を完璧に排除して学生なり学校運営なりをコントロールするというやり方が、教育現場に割と見られるようになってきているらしい。もちろん、それに対する批判はあるみたいだけれど。

 

まずこれが本当に教育の現場で学生に対して適応されていると考えると、学生をスコアリングして、その点数のみを根拠に、彼らの学生としての良し悪しを判定していくことになる。

取得ポイントに応じて機械的に判定してしまえるので、客観性があり、とても楽だし、判定する側からすれば、意外と抵抗がないかもしれない。次のステップの教育機関へ推す場合にもどの場合にも、その点数に従って動けば間違いはないので、便利だろうなとは思う。

 

ゼロトレランスが教育の現場に広がるのはどうしてなんだろう?

私が学生のころは、こんなような考え方はあまり見られなかったわけで、教育において(あるいは育児においても)は「正しさより優しさを」といった感じの姿勢が、一応あったように思う。私が通っていた学校が、まわりの学校と比べても規則の緩い学校ではあったのだけれど、それでも社会全体として、自分の頭で考えて、加減して、そして楽しみなさいという感じの優しさがあったと思う。逆に、やらなければやらなかっただけの結果が伴うことも理解できるように、学校や家庭で、失敗や成功を繰り返しながら、教え込まれたと思う。

 

ゼロトレランスという考え方が広がるということは、このような、優しさだったり結果・責任についての説明だったり、失敗や成功を繰り返す手間だったり、そういうものを一切排除する方向へ教育現場が向かっているということで、事情があろうがなかろうが、失敗や怠惰には詳細構わずマイナスのジャッジを下すようというように、教育者が変化していくことなのかなぁと思う。そう思うと、ちょっとこれは怖い。

それでも教育現場に広がりつつあるわけで、どうしてかなぁと考えると、そんなに考えなくても答えは出る。

①余裕がない。

教師はじめ教育に関わるスタッフに要求される事項が多すぎるんだと思う。

ひとりひとりの細かい様子や人間性、勉学以外にも評価されるべきするべき点があるのは、きっと現場の人間も分かっているんだと思う。だって、そもそも教育現場で働こうと思える人なんだもの。そういう優しさが、あまりの忙しさ、余裕のなさに飲み込まれてしまっているように見える。学生の失敗や怠惰そのものを見るよりも、その後ろにある背景や事情を探り、それを理解したうえで的確な言葉をかけることで、次の失敗を防ぐ、怠惰な姿勢を正す。本来はこうして手間をかけなくては、教育にはならないし、マイナス点をつけるだけでは本人の経験値にならない。けれど現実には、次から次へと問題は発生し続けるわけで、機械的にでも片付けないと仕事にならない。忙しさが、寛容さを奪う。寛容さをなくしたら、せめて仕事をしなければと、スコアリング・判定作業を徹底的にやるようになるのかなぁと思う。そうやって、人の失敗のみならず自分の失敗すらも許されない現場になっていってるのかなぁと。。

 

②学校生活が勝負のツール化している

学生である以上、学校生活の主体は勉強だけれど、その勉強はだれのために、なんのためにするのか。

いつからそうなったのかは知らないけれど、いわゆる一流大学に入りいわゆる一流企業に就職するために、勉強している学生が多い。自分の興味や向上心から勉強に励んでいる学生は絶滅危惧種なのではなかろうか。

いわゆる一流大学に入りいわゆる一流企業に就職するための、差し当たっての大きなステップとして受験があるけれど、受験というのは、本来自分との勝負というか、努力してきたことを発揮できるかという点で評価されるべきだけれど、残念ながらここ最近の受験というのは、完全に他人との競争になってしまっているので、これはもう是が非でも、他人を蹴落としてでも自分が勝つ必要がある。同じ試験を受けて得点数で競うなら話も単純だけれど、最近の受験では、学校での様子がとても重視される。そうなると単純に勉強ができるできないだけではなく、学校生活そのものまでも、受験のための、つまり他人との競争のためのツールになってしまう。学校生活が競争のためのツールになると、競争である以上、感覚的になんとなくというわけにはいかず、客観的な勝ち負けの決め方が必要になってくる。それで、ルールを逸脱することや決まりの不実行などについては、マイナスの採点をすることになる。競争のツールである以上、基準は絶対的であるべきで例外を作るわけにはいかず、事情があってもそれを考慮するわけにもいかないということなんだろう。

結果として、寛容さはどんどん失われて、ゼロトレランスに向かう。

 

 

育児や学校教育において、関係する人にはどうか寛容であることを諦めないでほしいし、私自身も常に寛容さを意識していたいけれど、それでも①についても②についても、社会的な傾向としては、しばらく変わらないんだろうと思う。

 

■そういう中で、学生自身は、また学生の子供を持つ親は、どう考えるか。

たしかに、不真面目や怠惰がマイナスに判定されること自体は、必要なのかもしれない。けれど、「減点されるよ」「競争に負けるよ」という伝え方ではやっぱりまずいのだと思う。マイナスの評価を受けるそのことよりも、その不真面目や怠惰の結果、自分にとってどんな不利益が発生するか、(身を持って経験できれななお良いけれど)他人との競争ではなく、先の自分にとってその振る舞いがどのように作用するかを自分で考えさせること、考えることが大切だと親が伝えること。それが必要なんだと思う。

それに、ひとりひとりの人間を判定するならば、実際の判定に反映させることはできなくても、やっぱり個人が抱える事情や背景は気にかけるべきだし、それからもちろん、誰かのマイナスのおかげで相対的にプラスになった自分を喜ぶような人間性はしっかりと否定しなくてはならない。

 

ゼロトレランスの概念に飲まれると、決まりの範囲内かどうか、減点されるかされないかにしかピントが合わなくなる気がする。

それは自分の学校生活、人生ではない感じがする。

 

ゼロトレ(そう略すらしい笑)の中にあっても、減点されるかどうかなどではなく、後の自分にとってどうか。常にそれを考えられる子になってほしいし、一緒に考えられる親でありたいと願う。

おわり。